出会いの不思議出会いの不思議最近親しくしている友人と一緒に、札幌に出かける。 彼女とは8年近く、一緒にある団体の世話人として活動を続けてきた仲間であり、 その経緯の中で親友となった人である。 学生時代には「大人になってからの親友はできにくい」と言われ、 だからこそ「学生時代に友達を作れ」と脅されていたような気がするが、 私のように、40代半ばになってからでも親友はできる人間もいる。 出会いのチャンスは、生きている間ある。 今現在、「親友がいない」「恋人がいない」「伴侶がいない」と嘆いている人に言いたい。 出会いは、今日、これからあるかもしれませんよ、と。 さて、今日会った人は、彼女だけではない。 中学時代の恩師とも、札幌で待ち合わせたのだ。 この日記で何度か書いているが、 私の中学時代は心理的には「真っ暗闇」だった。 当然、担任とだって、そんなに仲良くやっていたわけではない。 ただ、新任の若い教師だったS先生は、 全身をバリアーでガードしているような生徒である私が、 何となく気になっていたようではある。 だから、何かにつけて私の心を開こうとアプローチしてくれたけれど、 当時の私は、先生のそのような声かけすらある種迷惑だった。 でも、生徒の気持ちを何とかつかみたいとする姿勢は理解できたし、 「もしも本当に苦しい時には、先生に言おう」とは思っていた。 それだけを自分の「お守り」のように、 私は孤独な中学時代を乗り切った。 途中経過は省くが、その後の色々な関わり合いの中で、 先生は私にとって大切な「恩師」となってゆき、現在に至っている。 今年は、その先生との関係の中で、あるコンサートを開くことになり、 今日は、その時に一緒に協力してくれた彼女と3人で会うことになったのだ。 待ち合わせの場所で、偶然先生の知人と出会った。 せっかくだからと、少しの間四人でお話をしたのだが、 何と先生の知人と言う人は、私の父とも旧来の仲であった。 それだけでも驚きだったのだけれど、 その後3人で色々と話しているうちに、 今度はまた違う「縁」が、私たちと繋がっていたことを知ることになった。 全く無関係だったと思う人が、実はつながっていたということを知ることが時々ある。 そんな時、私は本当に不思議な思いに駆られ、 「他生の縁」という言葉が、実感として迫ってくるのである。 「縁は異なもの味なもの」というのは、男女関係だけではなく、 友人・師弟・仕事仲間、色々なことにかかる言葉であるように思う。 (2005年12月01日/記) |